藤原正彦著の『国家の品格』がよく売れたと云う。品質と気品をかねた「品格」と云う言葉がよかった。が、「初めに、武士道に飾られた祖国愛有り」から引き出される論旨は、大向こうを睨んだ乱暴な言葉使いの云いっぱなしで品がない。或は、ちりばめられた字句はそれなりに耳当たりよく、著者の気概が見えても質がない、と云えば言い過ぎか?例えば、「美しい情緒は戦争をなくす手段になる」と云うが、裏付けのない見出しは充分ではなく頂けない。著者が現職の大学教授云々は別として、これが以前に『若き数学者のアメリカ』を書いた人物の作品かと思うと、いささか惜しまれる。若い数学者の見たアメリカの話しを、少しはアメリカを知っているつもりの私は、頷きながら読んだものだ。今回は違う。所詮エッセイだ、と云ってしまえばそれ迄だが、それでは文章が泣く。同じく国家を論じても,同じく200万部をこえるベスト・セラーになっても、バラク・オバマの『合衆国再生 ― 大いなる希望を抱いて』とは大違いだ。格が違う。

生物学・医学上の論文は数学ではないから、数式の連鎖による論理の推敲にくらべて、その論旨には甘さが残る。しかし、かっこうのいい「仮説検証型」にしろ、今や古ぼけて見える「魚釣り型」にしろ、論文を一本書くには、それなりの動機と実験計画・遂行のための方法論があり、自分の手にした成績を基に過去と未来を結ぶ考察が必要だ。自分の得た成績の「新しさ」を分野全体の「分かった事」に繰り込む事が出来ればしめたものだ。著者側の材料不足と論文を載せる専門雑誌の限られた紙面との関係で、大抵はその中途で終る。もっとも、1953年のネイチャー誌171号(4月)に載った、「We wish to suggest ...」で始まり、有名な「It has not escaped our notice ...」で終わる本文1ペイジ足らずの論文の様な例外もある。この短報は生物学のスプトニクだ。DNAを主役の座に押し上げた、「生き続ける為の仕組み」を解明する手がかりとなった。何の為には問えないが、「如何に生きるか」への答えをもとめて、脳科学が次の出番をねらっている。人が恋に陥り、あばたがえくぼに見えるのを分子生物学は直ちには説明しない。脳指令塔から来る信号が手がかりを与えてくれる。これは脳科学が説明すべき世界だ。

学術論文の一編全体を通じて、言葉による説明に無理があると、つまり、データの欠如や論理の飛躍があると、普通「これはダメな論文だ」となる。同僚間の相互批判(peer review)の形をとって、夫々の分野毎に一定の評価基準ができているからだ。これを無事しのいでも、最後に「泣く子も黙る」雑誌編集者がどう云うか、の問題は残っている。が、ともあれ一つの研究を論文の形に纏める仕事と並行して、一研究者として決めなければならない事がある ― 「どの雑誌に投稿しようか。できればこの論文をあの有名雑誌に載せたい ...」。これは誰しも思う事で、何も殊更に、昨今の若い研究者だけを悩ますのではない。舞台に立つ俳優達は観客の拍手から元気を貰う、と云う。自分の論文が広く読まれて、今すぐにでも、その世界で注目を浴びたい。その為にタイトルに気をつかい、人目を引くキー・ワードをちりばめる。自分の主張の重大さを知る故に原稿を温め続けた進化論の生みの親、チャールズ・ダーウインの影は、戦後派数代にしてもはや全くない。

大方の研究者が自分一人の世界に浸っている間に、周りがすっかり変わってしまった。例えば、私の関与する視覚生理学上の実験に、手作り光学装置に代わってコンピューターを使い始めたかと思う間に、情報交換のやり方や文献検索が電子化された。今ではPDFでさえ検索出来るソフトが出来つつある。つまり、その気にさえなれば、有名雑誌上でなくとも、誰もがあなたの論文を比較的手軽に読めるのだ。更に文献「無料利用」の考えが広まりつつある。これは革命的でさえある。良い論文をたくさん集めて能率よく読ませると云う、有名雑誌の売り言葉の一角が大きく崩れた。それにも関わらず、我々が超一流雑誌に漂う「サロン」的様相に引かれるのは自分たちの勝手な思い入れ以外の何ものでもない。無料の自由な検索が常道の時代、本筋を外れた「有名雑誌云々への配慮・あこがれ」から抜けだせば、あなたの書く論文一つ一つの品格は、自ずと、そこに盛られた新しい情報・知識の質と量が決めてくれる。あなたが、読者つまり自分の競争相手でもある同僚達に知らせたいのは、そんな質量共に備わった新しさだ。如何に新鮮でも、超薄切りのトロ刺身は頂けない。あなたの手で展開しつつある「ストーリー」に次の新しい一頁を加えるのだ。回転の速い有名雑誌には、論文内容の訂正や論文そのものの撤回が頻発する昨今を思えば、ここで云わんとする事も分かって頂けると思う。良い論文と有名雑誌との関係が変わろうとしている。しかし、現代の科学研究が国民の税金とあなたの精力と時間とをつぎ込んで展開する限り、「新しくて正しい情報を、出来るだけ早くできるだけ広く」読者に伝える必要性はこれからも変わりない。オンラインの無料検索がこれを支えてくれる。繰り返すが、超一流雑誌が専門分野を先導する時代は過ぎた。時代を先導するのは、あなた自身のストーリーを展開し続けるあなたの書いた論文だ。

   
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